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改・芝川ビル①


芝川ビルについて

芝川ビル

芝川ビル

以前当ブログでも触れたことのある芝川ビル。船場近代ビル探訪シリーズの第一回でした。

淀屋橋の駅近くに現存する、船場を代表する瀟洒なレトロビルですが、今回はこの貴重な建築について改めて詳細に記していきたいと思います。

■芝川ビル

■ 大阪府大阪市中央区伏見町3丁目3-3

■構造:RC造  地上4階地下1階

■竣工:1927年(昭和2年)

■設計:渋谷五郎・本間乙彦

■施工:竹中工務店

芝川ビル建設に至った動機

このビルの所有者である芝川家は元々、近代大阪で五本の指に入る富豪の一族です。

二代目に当たる又右衛門は芝川家に婿養子にはいったのち、伏見町心斎橋筋にて唐物商(舶来物の貿易商)として独立。百足(むかで)屋の看板でこの事業は大いに成功し、一財を成します。

その後明治16年、絶好調であった事業をあえて廃業し、土地の購入を始めました。この時代は非常に社会的変動の激しい時代だったので、唐物商という目利きのいるリスクの高い仕事から、築き上げた財産を守るため土地活用という確実な事業にシフトチェンジしたという風に言われています。この時興した会社は現在も「千島土地株式会社」として順調な経営を続け、大阪市内に30万坪の土地を所有・管理する、関西で有数の不動産会社として名を馳せています。

その又右衛門の時代からすこし時は進んで、大正のはじめ。

芝川家は4代目の芝川又四郎が家督を継いでいました。

又四郎は建築に興味がある人で、あるとき、建築家の片岡安が大阪倶楽部で講演をしたのを聴講し、その考えに共感して自社ビルとなる芝川ビルを建てたと言われています。

片岡安に関しては今更説明も不要かと思いますが、関西の大御所建築家であり、明治38年に辰野金吾と共同で「辰野片岡建築設計事務所」を大阪に構え、数多の有名建築を世にお送り出しました。その活動の中で、都市における建築はいかにあるべきかという問題意識を抱くようになります。大正に入ってからは、建築以上に都市計画の問題に関心を持つようになり、『「都市計画」の誕生』という本によると片岡は研究を進めるうち「公館(piblic buildingの訳語。片岡はいわゆる公共建築だけでなく、ホテルやオフィスビルも含む概念として使用)」に興味を持ち、それらが中層の耐火・耐震構造を十分に備えた建築物として都市の中心部や幹線沿道に建てられた都市こそを「理想の街」として考えていたそうです。

そんな片岡が先述の講演会で、地震対策だけが施された建築が多い日本の現状に触れながら、大阪ではむしろ防火対策を第一に考えて、事務所の建築だけはどうしてもRC造で強固に建てておかねばならないということを説きました。

それを聴講した又四郎はまさにその通りだと感銘を受けたのです。四代目の又四郎は先代たちから受け継いだ資産を守ることを第一に考え、非常に強い責任を感じていました。当時の大阪は数度の大規模火災が発生していて、歴代の芝川家当主たちは建物ごと帳簿や書類(もちろん現金も)が失われてしまう火事を何より恐れていたといいます。加えて1923年(大正12年)関東大震災で起こった木造建物の倒壊と火災炎上により、「地震と火災に強い建物で会社を守る」という又四郎の思いはより強固なものになっていきました。

かくして芝川又四郎は、耐火耐震に優れた自社ビルを建設することを決意。

芝川ビルは建てられたのです。

総工費は25万円。現代のレートに換算すると15億円にも相当すると言われており、又四郎自身も「長年一所懸命貯めた」と述懐するほどで、そんな大金を注ぐには当然大きな決心が必要であったかと想像されます。しかし片岡が説いた事務所ビルの考えに共鳴した又四郎の決心は揺るぎないものでありました。

後年、又四郎は芝川ビルを建てたことで、火事を心から恐れていた祖父や父の思いに報い、今日の芝川家の安泰に寄与することができたと述懐しており、自身が86歳の時には自分の生涯の中の三人の恩人の一人として片岡安の名を挙げています。

→②へ続く