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改・芝川ビル②


 

芝川ビル-夜

芝川ビル-夜

前回「改・芝川ビル①」の記事はこちら

前回は芝川ビルがどのような動機で建設されたかについて触れましたが、今度は建築部分と、このビルにまつわるエピソードに目を向けてみましょう。

2人の設計者

この芝川ビルは、マヤ・インカ様式をはじめ、グッゲンハイム美術館など数々の世界遺産を設計で知られるフランク・ロイド・ライト(日本ではその4年前に旧帝国ホテルの設計なども行っていました)の影響などが指摘される建物です。基本設計と構造設計は渋谷五郎、意匠設計は本間乙彦が行いました。芝川ビルが竣工する一年ほど前まで、施主の芝川又四郎一家は兵庫県の帝塚山に住んでいました。偶然渋谷五郎も帝塚山に居を構えており、ご近所付き合いがあったそうです。そういったところから設計を依頼することになったのかもしれません。

また、渋谷と本間は共に東京高等工業学校(現東京工業大学)の同輩であり、かつ大阪市立都島工業学校の教員をしていた経緯もあって、そこから共同設計に至ったと言われています。芝川ビルの前に設計した建築が「感心もしなければ取るに足らないものばかりで、無難な日本的なスタイルに落ち着いてしまい総じておさまりが悪い印象」という評価を受けていることからも、渋谷は意匠設計が不得意であったことが窺え、だからこそ彼から信頼の置かれていた本間に白羽の矢が立ったのでしょう。

ビルの入り口脇にはひときわ飛び切り濃密な装飾を施した部屋があり、当時は客人の控室として使用されていました。(画像参照)ビル内でも特異なほど装飾されたこの一室は、実は芝川が基本設計の渋谷に内緒で他の設計者に頼んで設計させたという記録が残っています。「そういう勝手なことをされると他と全体の調和が取れなくなってしまう」と渋谷を怒らせてしまったという逸話があるそうで(それはそうですよね笑)、はっきりと誰に依頼したかなどは記録されていないのですが、件の本間は古代中南米について研究していたという記録が残っており、この部屋の装飾の雰囲気からもおそらく、基本設計の完成しないうちに又四郎が本間にこの部分の設計だけを先に依頼したのではないかと言われています。前回も触れた通り又四郎自身も非常に建築に興味のあった人であったため、最初に客人が目にするその空間に充分こだわりを詰め込みたかったのかもしれません。

ちなみに本間は未来を嘱望された建築家で、自らの設計事務所も開業していましたが、芝川ビル竣工から7年後に42歳の若さで早逝。長く生きていればもっと歴史に名を残すような名建築を世に送り出していったことでしょう(いま現存するのは小川香料株式会社大阪支店ぐらいです)。

建物用途の変化

芝川ビルの建築当時の元々の用途というのは実は「自家用事業用の本社ビル」ということ以外はっきりしておらず、堅固で豪勢に建設したものの、正直広すぎて余裕がありすぎる状態でした。一階は芝川店の事務所として利用され、階上は応接間や娯楽室などとして、 ゆったりと利用されていたそうです。

そこで、又四郎自身が教育に高い関心をもっていたことから、昭和4年「芝蘭社家政学園」という総合的な女子教育が行われる学校がこのビルで開校されました。

資料として残っている昭和8年の職員一覧表には、和裁・洋裁・手芸・西洋料理・中国料理・日本料理・習字・生け花・抹茶・煎茶・洋画・和歌・倫理修養…などなど、幅広い科目が並び、倫理修養ではなんと先述の渋谷五郎が教鞭に立っていたようです。建築士の先生が教える倫理の授業!ユニークかつレベルの高いラインナップであることが伺えますよね。

閉校までの14年間で、のべ3000人、関西じゅうの名門女学校を卒業したお嬢様たちが学んだこの芝蘭社家政学園は、今でいうところの短大の走りであったと言われています。

「竹鶴」と芝川ビル

余談ではありますが、NHK朝ドラの主役にもなった「マッサン」こと竹鶴政孝。

このマッサンがウイスキー作りを学んだ英国から妻・リタを伴って帰国し、大阪は帝塚山姫松に住み始めるのですが、その時の大家こそがこの芝川又四郎でした。イギリス人であるリタの為に洋風のトイレットを備えた家は当時少なく、又四郎の所有していた洋館は大変珍しいものだったのです。先述の通り又四郎も帝塚山に居を構えていたので、家族ぐるみのつきあいとなり、又四郎の娘たちがリタ夫人に英会話やピアノを教えてもらうなど、長年に渡り芝川家と竹鶴家は親交を深めていきました。

1934年(昭和9年)、竹鶴が大日本果汁株式会社(現:ニッカウヰスキー株式会社)を設立するにあたって又四郎は資金提供をし、大日本果汁株式会社の設立式は他でもないこの芝川ビルで行われました。そして大日本果汁株式会社は、大阪支社として芝川ビルに入居し(本社はご存知の通り北海道余市です)、芝川ビルのテナント運営は本格化していきました。

芝川又四郎と竹鶴政孝はその後も良好な関係性を築き、又四郎はおなじく大日本果汁株式会社の出資者であり筆頭株主であった大実業家・加賀正太郎の、政孝に対する過激な発破を宥めたりと、長きに渡って理解者として寄り添い続けたといいます。

それから時代は飛んで2007年の7月。この芝川ビルの地下にテナントが入居するにあたり、地下金庫室から謎の木箱が出て来ました。中身は1ダースの新品のニッカウヰスキー。戦中化戦後まもなく株主の配当品として配られたものらしく、驚くほどきれいな状態で残っていたのは奇跡的と言えるそうです。

北加賀屋にある千島土地株式会社の本社ビルに展示してあるとのこと。

現在も芝川ビルにはニッカウヰスキーのほぼすべてを取りそろえるというバーがあり、多くのウイスキーファンを虜にしているそうです。その他にも複数の有名テナントを擁する人気ビルとして、瀟洒な雰囲気はそのままに今も船場の街を華やかに彩り続ける、生きた建築です。

芝川ビルHP http://shibakawa-bld.net/