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2020年9月4日

旧生駒トンネル①


大阪における建設業の黎明期

いつもは船場の近代建築について記事を書かせて頂いたりしていましたが、それに絡めてとでも言いますか、本日からは少し趣向を変えて、大阪の建設黎明期について・その金字塔となった事柄や建築物についてのお話をを何回かに分けてお送りします。

旧生駒トンネル建設への挑戦

初回は、大阪の近代建設業を語る上で欠かせない「旧生駒トンネル」の大工事について。

当時の民間企業には、社会のために果たすべき使命として自らすべてを賭ける志があったと言われます。特に大阪人には国に頼らず自分たちの力で何かを成したいという自立自尊の心がありました。この旧生駒トンネル建設の指揮を執った大林芳五郎率いる大林組も、事業はすこぶる順調であり未来は明るく、自らのさらなる技術力の向上と革新的な挑戦の訪れを待望していたと言います。

そんな明治の終わり。

大阪-奈良間に新規の鉄道を敷設するという話が持ち上がりました。

当時その間にはすでに国鉄が走っていましたが(現在の大和路線にあたる線路です)、それは大和川流域を避けるためにおおきく迂回をとったコースでした。大阪市から見て奈良市はほぼ真東に位置しますが、その間には生駒山が横たわっています。それを避けて南下すると今度は大和川があるわけです。自然の地形を避け続けて敷設した線路はそのぶんだけ長くなり、運行時間は1時間20分ほどもかかっていたそうです。そんな大阪―奈良間を東西で直線的に結べたなら、時間の短縮だけでなく経済的効果も測り知れないものがあると当時の大阪の企業家は考えていました。そしてやはり、国には頼らず、自分たちの力、在阪の民間の手で解決しやり遂げたいという思いがありました。先述の通り、自らの商売だけではなく、広く社会に貢献することを美徳としていたのです。

日清・日露戦争に勝利し機運が高まっていた日本では、次々と挑戦的な新事業が計画されていました。これもまたその一環であり、その中でも特に壮大な事業になるであろうことが予想されました。

かくして明治43年(1910年)、夢のトンネル建設を実現すべく、奈良電気軌道株式会社という名の新会社が工事に先んじて設立されました。その後すぐに大阪電気軌道株式会社と社名を変え、これは現在の近畿日本鉄道株式会社の前身となります。

発起人は土佐藩士で実業家の竹内綱や、前述の大林芳五郎、大同生命保険会社の廣岡恵三、のちの近鉄グループの主となる金森又一郎(10歳で大阪府庁に入庁したという伝説的に有能なビジネスマン)、大阪市議の七里清介といった錚々たる財界や政治家が名を連ねています。社長を廣岡が、常務は金森が務め、また北浜銀行の頭取であり大林組の創設にも係わった岩下清周も取締役となりました。以上の面子から、関西の雄たちが一丸となって取り組んだ本気の事業であることが伺えます。

トンネルの建設に際しては当初、生駒山を登るのか、山を掘って貫くのかという二つの選択肢がありました。このとき大林組創業者の大林芳五郎は、日本の国土技術の発達を促す絶好の好機であるとして、トンネル案を熱心に指示したそうです。

次回はそのトンネルに関する具体的な内容に触れていきます。