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旧生駒トンネル②


前回の記事>「旧生駒トンネル①」

民間で一番のトンネルを作る

奈良―大阪間を最短距離で繋ぐという構想にあたり、当初はケーブルカーやロープウェイでの生駒山越えも検討されました。しかし本来の高速都市間電車としての機能が失われることから、岩下清周(北浜銀行頭取であり大林組の設立にも寄与)の発案により「トンネルで実現する」という決定がなされました。

全長3,388mものトンネルは、当時民間で手掛けるものとしては日本一の長さ。国営のものを入れても全国2位(1位は国鉄が手掛けた笹子トンネルで4656m)となる一大プロジェクトでした。しかも笹子は単線狭軌式トンネルだったのに対し、今回は複線規格での挑戦。国鉄でも着手したことのない難工事に民間が挑むことは、これからの日本の建設業にとっても大変大きな意味を持ちました。

間違いなく日本で初めての大工事と言える歴史的なチャレンジだったのです。

明治44年(1911年)6月には本線工事が始まり、同年7月、いよいよ生駒トンネルの工事も開始されることとなりました。この偉業を成し遂げる為、すべてを賭して工事を請け負った企業こそが、大林組でした。

大林組の挑戦

創業者にして社長の大林芳五郎は当時47歳。先に述べた通り、このトンネル工事は誰の目から見ても困難を極めるものでした。莫大な損失を被ることになりかねないリスクを恐れた大林組社員の多くは、芳五郎に対して反対の意見を呈したそう。

しかしそこは不撓不屈の精神を持った芳五郎です。このとき周りに説いたとされる内容が、芳五郎の息子・大林芳雄がまとめた『大林芳五郎傳編纂会』に記されています。

“成敗利鈍は問ふところではない。土木業者として千載一遇ともいふこの会心の大工事を見逃し得ると思ふか。もし自己の利害のためにこの工事を避けたなら請負業者としての大恥辱である。屍を戦場に暴(さら)すは武門の慣ひ、不幸大林が業の為に殪(たお)れたとてそれは土木業者として職に殉じたもの、寧ろ男子としての本懐ではないか”

芳五郎のそのあまりにも熱い意思を前に、異議を唱えていた周囲の者たちも納得せざるを得ませんでした。かくして大林組の挑戦は始まったのです。

試行錯誤の掘削工事

最新式の米国製ライナー削岩機を購入し、西坑口は大阪石切、東抗口は奈良生駒としてその両方から掘り進めることになりました。1500人の作業員が三交代制で昼夜を問わず作業に当たったといいます。掘削当初は花崗岩の良質な地質に恵まれましたが、掘り進むにつれて脆弱な地質と大量の水に悩まされ、一日に数十cm程度しか掘り進むことが叶わなくなってしまいました。ひどい時にはなんと1か月に30cmも進まなかったそうです。大量の作業員もすっかり疲労困憊し、それでもくじけずに来る日も来る日も作業を進めました。

そんな過酷な作業のさなか、さらに悲劇が起きます。

ようやく全体の2/3まで掘り進んだ大正2年(1913年)1月26日。この日も脆い地質を掘り進める中、大規模な落盤を引き起こしてしまいます。作業員ら152人が生き埋めになる事態が発生。結果20名もの尊い命が奪われてしまうこととなり、これは今現在も日本のトンネル落盤事故としては史上最悪と数えられる悲劇として語り継がれています。

この件により精神的ダメージが蔓延する中、工事費用の見込みも当然さらに上回ることとなり、物理的にも追い込まれてしまいます。当時の大阪電気軌道株式会社の社長であった岩下清周は、私財を投じて工事を続行させました。その心労は計り知れません。

その後も工事は困難を極め、試行錯誤の繰り返しでしたが、それらを耐え抜き乗り越えた大正3年(1914年)4月18日、約3年の時間をかけてついに生駒トンネルは完成に至りました。

複線式という複雑な形状にして全国2位の長さを誇るトンネルをわずか33カ月で完成させたという功績は日本の鉄道史上でも画期的な出来事として世間の称賛を浴びました。ちなみに前述の笹子トンネル(当時の日本一長い単線国鉄トンネル)は生駒よりも1200mほど長さがあるものの、72カ月という倍以上の時間を費やしています。このことからも、いかにこの大工事が驚異的な速さで完成したかが伺えます。

 

次回はこれらの裏で起きていたもう一つの困難について触れていきます。