建築・設備・土木の優良求人を全国から集めた転職支援サービスです 【更新日:2020年10月24日】

メニュー

旧生駒トンネル④


※アーカイブはこちら

▶「旧生駒トンネル①」

▶「旧生駒トンネル②」

▶「旧生駒トンネル③」

開業、そして危機

幾多の困難を超えて、大正3年(1914年)4月30日、ついに大阪上本町―奈良間の営業運転が始まりました。世間の耳目を集めた画期的なトンネルへの関心もあり、当初は予想以上の乗客が日々押し寄せ、運賃収入もうなぎのぼりの好成績を収めました。しかし巨額の借り入れとそれに伴う利息は一層経営を深刻し、順調だった運賃収入も芳しくなくなっていきました。というのも、この路線は当初、人々の生活に寄り添ったものというよりは、観光として利用する目的の客が多かったのです。よって天候によって乗客数は大いに左右され、大阪電気軌道ではなく、大阪天気軌道と揶揄されるほど、実力「日本一のトンネル」とは裏腹に会社の経営は逼迫していきました。

社員の給料支払いも滞るほどの状態になってしまった、そんなときに起こったとんでもないエピソードをひとつご紹介します。

ある日、大軌は翌日に営業で使う切符が用意できないまま途方に暮れていました。というのもなんと、切符を印刷する費用すらも捻出できない事態に陥っていたからです。切符の調達ができなければ収入源である運賃収入が入ってこなくなり、そうなると営業の継続すらままならないといういよいよ終末的な状態でした。

金森は考えた末に夜遅く、生駒聖天・宝山寺へ走り、当時の駒岡慧証師は経営危機の一因は生駒に駅を作ってほしいという要望を大軌が受け入れていくれたことにもあるとして、快く都合してくれることになったのです。給すれば通ず、とはまさにこのような出来事を指すのかもしれません。

大林芳五郎の死、その後の発展

その後も大林芳五郎氏は大軌にたいして催促がましいことは一切口にしませんでした。この好意に甘えざるを得なかった大軌。そのせいで大林組は倒産寸前まで追い込まれてしまいました。

一方の大軌にも連日のように債権者が押し掛けており、両社ともに惨憺たる状況に陥ってしまいました。大林組と大軌の債務焦げつきで。岩下清周の北浜銀行が破綻し、頭取の座を辞任。別件でも背任の罪に問われて窮地に陥った岩下を助けるため奔走していた大林芳五郎も、過労がたたってか病に倒れてしまいました。

その後実業家の片岡直輝が両社の再建に乗り出し、大正5年(1916年)3月に債務整理を終えるのですが、その約二か月前、完了を見ずして満52歳で芳五郎氏はこの世を去ってしまったのでした。

債務整理を済ませた大軌は、経営も軌道に乗り、新線敷設や合併を繰り返し、奈良県全域から伊勢、名古屋へと路線網を広げていき。昭和19年(1944年)に近畿日本鉄道になりました。

生駒トンネルのほうは火災や車両事故などの悲しい出来事に見舞われながらも昭和39年に南側に新生駒トンネルができ、廃止となるその間に約50年間、沿線各地の経済的・文化的発展に大きく貢献したことは言うまでもありません。今里や布施、小坂は飛躍的に大きな市街地と化し、あやめ池や奈良への観光客も飛躍的に増えました。またターミナルである上六駅周辺では大阪屈指の繁華街になり、今日も人の往来が絶えず、一定の賑わいを見せています。

大林芳五郎が建設業発展のために自らの命を賭して戦った、その功績の上に現在の大阪の街があるのだということを忘れずにいたいものです。